周辺史跡


柴島浄水場


明治の初めまで大阪の庶民の生活用水は 淀川の水を汲んで一荷いくらと売り歩いていた「水屋」や井戸水によって賄(まかな)われていました。

明治18年の大洪水、翌年のコレラ大流行 明治23年の「新町焼け(西区)」の大火で水道を望む声が高まり 明治28年(1895)に日本で4番目の水源地(浄水場)が桜の宮にできました(大正4年廃止)。

その後人口増加で給水能力不足になったため 明治41年~大正3年(1914)の6年をかけて東洋一の柴島浄水場(43万m
3)を建設。さらに続く人口増加で昭和32年・43年に庭窪(にわくぼ)・豊野両浄水場(守口・寝屋川市)がつくられ現在は3つの浄水場から一日243万m3の水(明治の約4倍)を約260万人に供給しています





水道記念館


道記念館は、大阪市水道通水100周年記念事業として 水道の歴史やしくみ、水道水源環境に関する知識の普及啓発を図るため 柴島浄水場の旧「第1配水ポンプ場」1914年(大正3年)から 1986年(昭和61年)までの本市水道の主力ポンプ場)を保存活用し 1995年(平成7年)11月に開館しました。

平成27年からは、水道事業の役割や水の大切さ 浄水場の仕組みなどについて より一層理解を深めていただけるよう 個性あふれるキャラクター(じょう水ジョーと大阪水フレンズ)の映像や グラフィックパネルを用いてわかりやすく紹介する学習施設となっています。

平成29年10月の学習施設リニューアル後は春休み・夏休みの期間に加え、土曜日・日曜日・祝日にも一般開放を行っています。





崇禅寺


寺伝では天平年間、行基により創建されたとされる。この経緯から当初は法相宗寺院であった。嘉吉元年(1441年)6月、嘉吉の乱により赤松満祐に殺害された足利義教の首は本領に引き上げる途中の赤松氏軍勢によってこの寺に放置された。この因縁により、以後義教の菩提寺の一つとなり 摂津守護細川持賢により伽藍と所領を寄付され曹洞宗に転宗また細川氏菩提寺の一つとなった。
明治2年には一時摂津県の県庁が置かれていたことから境内は大阪府史跡、大阪市史跡に指定されている。細川持賢による大伽藍は文明15年(1483年)、早くも戦火によって焼失 その後慶安年間になってようやく再建されたがそれも昭和20年(1945年)6月7日の大阪大空襲によりことごとく焼失した。現在の伽藍は平成元年(1989年)になってようやく再建がなった鉄筋コンクリート造りのものである。

細川ガラシャ菩提寺
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦に置いて石田三成の人質になることを拒否した細川ガラシャは自らを家臣に殺害させて細川家大坂屋敷に火をつけ、死去した。その後、宣教師オルガンチノが焼失した細川屋敷より遺骨らしき物を掘り起こし細川家菩提寺である崇禅寺に納めたとされる。この経緯から崇禅寺は細川ガラシャの菩提寺となり先述の足利義教の首塚と並んでガラシャの墓が残っている。

遠城兄弟のだまし討ち
大和郡山藩士・遠城宗左衛門は剣術の試合で生田伝八郎に勝ったがこれを逆恨みした伝八郎により闇討ちにあい殺害された。宗左衛門の兄・遠城治左衛門と安藤喜八郎は弟の敵討ちのため伝八郎をこの崇禅寺に呼び出したが逆に伝八郎は多数の加勢を呼んでおり 治左衛門と喜八郎は返り討ちに会い殺害された。 当時の崇禅寺住職・門啓天岑と元江戸町方与力・勝見宗春はこの兄弟の哀れを思い遠城兄弟の墓を崇禅寺に築き、菩提を弔った(崇禅寺馬場の仇討)。





中島惣社


中島惣社は、孝徳天皇の白雉2年(651年)難波長柄豊碕に遷都されたころ五穀豊饒を祈るために多くの神領を得て創建されたといわれています。

建武年間、足利氏が幣帛(へいはく:神前に供える物)奉納した記録があり豊臣秀頼が中島總社と記された絹地を献納するなど豊臣氏は特に崇信していたようです。

慶長の末年、大坂の陣において兵火にあい古文書などは焼失し本社古代の絵図面一葉と建武2年(1335年)中島總社と記した木製額面のみとなり創祀の年月は不明ですが、その昔中島郷の中洲にあり田畑が開け人家も増加したため守護神として宇賀御魂神(うがのみたまのかみ)を祀ったのが始まりと伝えられています。






柴島神社




社伝によると、貞永元年(1232年)9月の大洪水時に「仲哀天皇の森」という名の高地に避難していた村人のところに柴に乗った小祠が流れ着き、まもなく水が引き救われたため 以後、産土神として奉祀したのが起源という。

村社の社格を与えられ、神饌幣帛料供進社に指定されていたところ 明治34年(1901年)4月淀川大改修工事のため 仲哀天皇社とともに現在地に移された。










長柄橋





古くから広くその名が知られる長柄橋ではあるが橋の所在地については定かでない。

信頼度の高い書物にこの橋が登場するのは『日本後記』の嵯峨天皇条で弘仁3年(812)、律令の制度にのっとって
中央政府から造橋使が派遣されて工事が行われたとされる。しかし、40年後の仁寿3年(853)には橋は既に廃絶しており、渡船が設けられていた。

短命に終わった長柄橋は、人々の心の中で生き続け歌枕として様々な歌に詠まれた。また、この橋には人柱の悲話が伝わり”物いわじ父は長柄の橋柱鳴かずば雉も射られざらまし”の歌を耳にされた方も多いであろう。

長柄の地に再び橋が架けられたのは明治6年のことで現在の橋とほぼ同じ位置に豊崎橋という名の橋が造られているが長柄橋の名が千年の時を経て復活するのは明治42年、新淀川の開削にともなって架けられた鉄製のポニートラス橋である。この橋は明治7年に開通した東海道本線のトラスが転用されたものである。その後、昭和11年に架け替えられた橋は第二次大戦末期に爆撃を受けて橋桁が損傷し橋の下に避難していた人々に多くの犠牲者がでた。橋の南詰の観音像が犠牲者を供養している。

現在の長柄橋は、昭和58年に完成したもので中央部の橋はニールセンローゼ桁というアーチ形の橋が採用されている。近代的なアーチに千年の時の流れを映している。












柴島浄水場壁面の空襲による弾痕





「柴島浄水場壁面の空襲による弾痕」
1945年6月7日・6月15日・6月26日東淀川区は米軍機による空襲にみまわれた。

特に6月7日の空襲は激烈をきわめ1トン爆弾や焼夷弾が雨あられと降りそそいだ。 

米軍機はさらに低空の機銃掃射を繰り返し浄水場の崇禅寺駅側壁面に弾痕が約50メートルにわたり残された。

この弾痕は、空襲に倒れ、傷つき、死んでいった物言わぬ多くの人々への生き証人として、私たちに語りかけている。













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